昭和45年11月10日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の気感に適うた氏子が少ない。身代と人間と達者とが揃うて三代続いたら、家柄人筋と成って是が神の気感に適うたのじゃ。神の気感に適わぬと、身代もあり力もあるがまめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、又大切な者が死んで、身代を残して子孫を断ってしてしまう。神のおかげを知らぬから互い違いに成って来る。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ。」
信心の本当の意味に於いての基礎基本をこの様に教えて居られると思うですね。信心の基礎又は基本になるところ、人間が幸せになって行く幸福になって行くいわば基本と云うてもいいかも知れません。ね、本当の幸福にならせて頂く為の基礎、それにはどうしても神のおかげを知らなければならん、神の大恩を知らなければならん。ね、そこでまあ例えて申しますと今日は十日と云うお日柄、昔は私の母達はあのおんきと云うて居りましたですねえ。おんき特別な日ですねえ、おんき。
今日はおんきだと云う日はちゃんともう朝からいろいろの心ろ配りがちゃんとしてあって。そのおんきである十日の遠忌であるいわゆるお月次祭に御参拝のおかげを頂く事を心に懸けさせて頂き、また念じさせて頂いて、それがいわば母だけではなくて、なら私達子供までが今日はおんきぞと云う事が感じられる。今日はおんきじゃから連れて参るぞと云う事に成っておる。ね、
そう言う事がどう言う事からあの出来るかと云うと神のおかげを分かりまあ天地の大恩が段々分かって来たからその様な事に家族が家庭がくるめてそう云う事に成っ来る。ねはあ今日はおんきじゃったね、ああ今日はおんきですよ、とさあ何かにと御都合お繰合わせ頂いて又早よみんなでお参りせにゃとこう云う訳なんです。私はあのまあ此処の所を色々説明的にしないでですね、云うならそう云う様な雰囲気が家庭の中に生まれて来たら、私は此処の所のおかげは受けられると思うですね。
人間も身代も健康もすぐ出来て来ると思うですね。しかもそれが三代続いたらと、それなら必ず三代は四代でも続くと思うですね。ま私供の場合は何時も母が中心でしたから、母がまあ今日は遠忌と云うよりもむしろ前の晩からそう云う雰囲気があったですね。宵越しのお祭りが前の晩に有るんですね。それは成程おかげを頂かなければならんから、おかげをまた頂くから、そうでもありましたでしょうけれども。
だんだんおかげを頂き、まあ只、頂かなければならないお願いもあっての事ですけれども何とはなしに何時の間にか神のおかげが分かって行きよる。内はもう神様のおかげを頂かにゃ神様ちゅうより、お神様ち言いよりましたですねえ。お神様のおかげを頂かなければ立ち行かん家だと云う風な事が何時もその雰囲気の中にある。天地の大恩を知れば無事健康でとこうおっしゃる。
天地の大恩も段々分からせて頂く、それこそ私共の婆ば達はやはり大地、昨日の御理解じゃないけれども大地、泥を大変大事にしました。御地内をみだりに汚すなよと云う事だけじゃ無くて、もう大地泥そのものがもう云うならばお薬の様なものだったの様に大事にした。私共があのうね、子供の時にはもう生傷が絶えぬ何時も何処か怪我した。小刀で指を切ったり転んで膝を割ったり本当に生傷が絶えんぐらいにあるですねえ。
そう云う時にすぐ婆ばはあの泥を頂いてこうやって金光様金光様と云ってにじってくれた。それでおかげを受けた。そう云う様な例えば雰囲気が親子孫まあ云うならば、まあ私の方の場合は続いてきた。なら私の今のこの信心が又子にも孫にも伝わって行くであろう様にとにかく神のおかげを知りて天地の大恩を分からせて頂く、そう云う雰囲気がね、云うならばさあ今日はおんきぞと云うて、家族の者が何とはなしに子供達でも。
はあ今日は連れてお参りして貰えると云う様なね、そう云う雰囲気がね家庭の中に出来て来ると云う事。私は今日のこの御理解の所をひっくるめて簡単に表現するならそんな事だと思うですね。いちいち例えば身代と人間と達者と云った様な事をですね、後になったり先になったりと又は互い違いになると云った様な説明をする事よりもね、そう云う家庭的信心の雰囲気と云うものが出来るまでなんです。
それが私は信心の基礎だと思うです。いや人間が、いや家庭がいよいよ繁盛して行く基だと思う、人間が幸福になって行く私は土台だと思う。ね、もう生まれて誕生ぐらいに成ったらちゃんと拝むことを覚えて居る。昨日一昨日でしたか原さん所の二番目の息子が誕生でお礼参拝して来て、まあおかげを頂いて誕生前から走るぐらいな、おかげを頂いて、でこう親子お婆ちゃんとですから四人お礼参拝して来ている。
それにちゃんとそこに座ってからやっぱ柏手打ってからちゃんと拝みよる。ね、お婆ちゃんそれに息子嫁御孫ともう云うならば親子三代の信心がその様にして出来て行きよる。ね、もう絶対です、こうしてこう云う信心の雰囲気が家庭の中に育って行くならもう絶対人間と身代と達者と云うのがねいつの間にか備わって来る。それが信心、それが話を聞いて助かる道のお道の信心なんだ。
そこで私は今日の七十八節をですね、信心のやはりその焦点、基礎と云うのはね、そう云うおかげを頂かせて貰う事がいつの間にか家の中に家庭の中に染み込んで行くと云う様なです、おかげを頂く事だと思わせて頂いて居る。それをね三代も続いて行く内にですよ、いろんな事がありますでしょう。不幸な事に遭う事もあろう、災難に遭う事もあろう。なら此処に人間と健康とが、と云うてあるそれを此処では壮健(まめ)と云うて居られますね。(まめ)にない、まめと云うてある。それはまめでない事もあろう。
神の気感に適うたらそう云う事が全然ないかと云う意味じゃないと思うです。ね、例えて云うと、なら病気致しますね、はあほんとにそう云う例えばさあ今日は遠忌ぞと云うて家族の者が仕事を早や仕舞にしてお参りをさせて頂こうと云う様な雰囲気、もうそにはねあのう何て云うか私利私欲の観念と云うものが段々無くなって行くね。もうお祭りと云うならもう別なものにしてある。
はあ時間が掛かるとかお初穂がいると云う事はもう問題じゃない事に成っている。もう家族が家庭の中にねそう云うものが出来てしまってくる。ね、それこと神様事と云うたら時間なんか問題じゃあない。こと神様事ちゅうたらお金の要るとか要らない、そんな事はもう問題じゃあない。と云う程しのまあ溶け込むと申しましょうかね、信心に。そう云うなら生活をさせて頂いて居っても場合にはです、ね。
いろんな災難に遭う事もあろう、中にはこう人間が出来て行くと云うても、はあほんとに信心させて頂きよってこんな事考えよると云った様ないわば人間がお粗末になっている時もあろう。そう信心が出来ておっても病気をする事もある。ね、人間が出来て居るからもう腹の立つ事も無かろう、もう信心が立派に出来たから誰も病気もせん風邪も引かんと云った様な事ではない。
又はお金に不自由する様な事もあろう。ね、けどもそう云う事がですね、どう云う事に成らなきゃならんかそう云う事がね、みんな御神意だと分からせて貰う。神様の御都合だと、ね、そして神様のその御都合がどう云う御都合であろうかと云うといわゆる氏子によりおかげを下さろうとする神愛であると云う事がです何時の間にか感じ取られて分かって来る。私は人間と身代と健康と云った事はそう云う事だと思う。
お金に不自由する時に神様が此処に何か分かれと云い御座るなと、すぐそれに直結出来る、神様の心と。例えよし病気してもいい、ね、その事のおかげで信心が出来ます。昨日一昨日でしたか、昨日もそうでした。重永さんがお届けなさった。夕べは熊谷さんがその事をお届けされた。最近修行生一同で幹三郎の事のお届けがある。やはり此処に居っては幹三郎君幹三郎君と云うて幹三郎君で君づけで呼んでますからあのうね。
やはり幹三郎君としてお届けがある。所がふと考えさせて頂いたら是は幹三郎君のおかげで今まで出来なかった信心が出来よる。幹三郎君のおかげで今まで出来なかった修行がさせて頂きよる。修行生一同が勢を揃えてその事に御祈念がさせて頂く事が出来よる。こりゃあ幹三郎君じゃあない幹三郎様様だと思うた。だから今日は幹三郎君ち書かせて頂いたけど明日から幹三郎様と書かせて頂きますと云った様なお届けがあった。
ほんな事のう、それどころじゃあなか、ほんなこて幹三郎様様ねと云うて話した事でした。幹三郎君のおかげで信心が出来る。まそんな事に昨日熊谷さんもそれと同んなじ様な意味の事を本当に日に三遍もこうやってお参りさして頂いてね、とりわけ夜の御祈念にはもう本当に幹三郎さんの事だけでお参り、やっぱり日に三遍吉井から三遍ち、ならそりゃかかっとらんならん、心に懸け通しに懸けとかにゃ出来るこっちゃない。
しかもその御祈念の時間にきちっと間に合われる。けれどもとても私の云うならもう七十何歳にならせて頂いて合楽通いが日に三回も出来ると云う事は本当にもう幹三郎ちゃんのおかげですとこう云う事になって来る。ね、そこにはもう病気もあろう難儀もあろうけれどもそのおかげでと云う頂方なんだ。私は金光様の信心はそうだと思う。そう云うおかげの受け方受取方頂方が出来るから。
さあ今日はおんきぞとおんきの日を忘れる段のことじゃあない、さあおんきはうってこぞってさあお参りぞと云うことになって来る雰囲気が家庭の中に生まれる。さあ親も子も孫もでしょう。ね、私はそう云う信心がです、家庭に出来たらもう私は大丈夫だと神様が安心して下さる様に思うね。云うなら神様が安心して下さる家庭と云うものをです、私共は頂かせて頂く事に何時の間にか何とはなしにそれが染み込んで行き分からせて頂けれる様なおかげを頂きたいですね。
もう説明をしなくてもちゃあんとその子供の時からね、神の大恩が分かりね、神様のおかげを頂かなければ僕の所は立ち行かぬのだと云う様な事がちゃんと子供心に分かっている。遠足といやあ運動会といやあもう必ず母が十銭のお初穂とお賽銭とその時分には 筑後軌道と云うのがありましたがね、その軌道賃をやってお届けして来いとね、お母さんがお届けしてやっても良いけども、そりゃ自分のことだから、僕の事は僕でお届けに行けと云う訳なんです。ね、
そう云う何時の間にかですね信心の教育をしよる仕付をしよると云うじゃ無かろうけれどもそう云う仕付がちゃんとこう出来とる。何時の間にか出来よる。原さんとこの孫じゃないけどもう誕生だった時には御神前に向こうたら必ず頭を下げんならんもん柏手打たんならんもんと思うとる。御飯を頂くときには神様頂きますと云うて御神訓唱えなきゃ頂けん事になって居る。ねえ、私はそう云う家庭がですたいね。
いわゆるなら原さんとこで云うならばお爺ちゃんお婆あちゃんが先ずその手本を示し息子が嫁御がそして孫達が、いつの間にかお爺ちゃあお婆ぁちゃんの信心を見習うてる。何時の間にか信心の受渡しがちゃんと出来ている。もう親子孫既に天地の大恩を分からせて頂いて神様のおかげを分からせて貰うての生活がそこにある。ね、信心しよりゃ病気もせん、もう神様の気感に適うたらもう金に不自由する事は絶対無い、病気なんかせん災難なんか遭わんと云った様な事では決してない。
けれどもそれがね、それが御神意だと分からせて貰い神様の御都合だと何時の間にか覚えさせて貰い、そしておかげを下さるより下さろうとする神愛であると云う事をです、ね、家族中の者が説明しなくても分かる雰囲気、ね、家族中の者が分かる云うなら信心がです出来て来ると云う事。私はもう安心して良いですよと云う訳じゃないですけれどもね、それが何とはなしに家庭の中に出来て行きよるならば、もう後の事は心配は要らんと私は思うです。息子の事は心配要らん孫の事は心配要らん、ね。
私は有難いのはね合楽ではそう云う家庭が段々まだいわゆる教会になってから三年椛目から通算して二十何年ですけどね、その間にねそう云う家庭が段々出来て行きよると云うことです。ね、だから三代経ってしまわなければちゅことはない。そういう見通しが出来る雰囲気を持った家庭が段々合楽には出来て行きよると云う事がね、いよいよ子孫も続き身代も出来一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来る。
いよいよ代勝りのおかげを受けられるなあと、ね、思えれる信心が家庭の中に育っていって居る。その事が私は有難いと思う。 神のおかげをいわゆる神恩報謝の生活が、神恩報謝の生活と云わんでも何時の間にか何とはなしにそう云う信心が出来て行きよると云う事。そう云う信心の雰囲気をねいよいよお互い大事にさせて頂いて素朴ながらもです、素朴ないわば今日の御理解を頂いて居るとそんな感じですね。理屈じゃないですね。
そう云う信心が私は身に付いて行きよると云うおかげをね、なら皆さん此処ん所皆さんずうっと思うてみてご覧んなさいみんな親子孫続いておるでしょうが。ね、なら堤さんの所だって久富さんの所だってね、秋山さんの所だってずらっと此処に三人前に並んで居られる皆んなそうです。お爺ちゃんお婆ぁちゃんが参りして来られね、息子達夫婦が信心する。勿論孫達もまでも付いて来る。
修行生の所の於てしかり秋山さんなんかとこに於てしかり、ね。もう縁に付いとる娘達までが信心の事をちゃんと身に付けて行きよる。だから此処ん所を私は今までは人間と身代と達者とがいわゆる神の気感に適うた氏子と云う事やら何かこう大変難しい事の様に思いよったけれども何時の間にか出来て行きよる。そう云う意味で合楽は皆さんおかげを受けて行きよるなあと思いますね。
その事をです私心から一つお礼を申さして貰わにゃいけん。ホッとその事に気付いたたんびに何と有難い事だろうか家族挙げてひっくるめての信心がこの様にして出来て行きよる。いよいよ一年勝り代勝りのおかげを、日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげを頂かせて下さいと。例えば願わんでもです。そ云うおかげの信心のいわゆる土台と云うか、人間が本当に幸福になって行く基礎土台と云うものが、出来て行きよる事を。
私しっかりお礼を申させて頂く、そう云うお礼が私はおんきに繋がって来ると云う様なね。おかげでなからなければならないと思うんです。ね、さ今日はおんきぞと云う時にはそう云うね何とも言えぬ有難いものがです、ひっくるめられてさあ今日は遠忌ぞとお礼参拝が出来れるそう云うお月次祭でありたいと思いますですね。ですからさあ子供も来い孫も来いと云う事になって来なければならんと思うのです。
何とも言えん金光様の御信心の滋味豊かと云うかねえ何か何時の間にかそう云う素晴らしい一年勝り代勝りのおかげがお互いの家庭の中に染み込んで行きよる。お互いの信心の中にそれが何とはなしに分からせられお育てを頂いて行きよる。ね、其処ん所ろがとりわけ願うわけでも無いけれどもおかげを受けて行って居ると云う事がです、もう私は本当の意味に於いての、金光様の信心を頂いて居る。
いわゆるお道の信奉者の私は在り方と云うものはもう皆んなそうでなからなければならないと思うです。もう理屈じゃない。そう云うおかげを何時の間にか家の中に染み込んで行って居る。その事がね思われる時にです、ほんとにこれは有難い事に成って来た事じゃああると云うものがね、家族挙げてのさあ今日は遠忌ぞと云う事に成って来る、おかげをね頂かせて貰いそれこそ心行くばかりにおかげを受けて居る事をね。
今日は取り付かれてお礼を申させて頂けれる日、御礼のお月次祭と云う様な事の、がですね理屈ではなくてね家全体でそれを感じるおかげ。この五体全体でそれを感じるおかげをです、身に付けて行って居ればそれは必ず身代と人間と達者と云う事がですね出来てしまうと云う事ではない。そう云う信心が出来て居るから病気せんと云う事ではない。けれどもそのどの事がです例えば普通で云う難儀と云う様な事もです、
ね、神様の御都合に違いはないのだと云う分からせられ方、ね、そこから又一段とより有難い信心を分からせて頂く。ね、幹三郎ちゃんのおかげで信心が出来ますと云うそう云うものの見方考え方がです、ね、もう理屈ではなしにそう云う事が分かってしもうて来る、家を挙げて。家庭を挙げて、何時の間にか。ね、そう云う一つ家庭総懸かりの信心と云うのはそう云う信心が育って行く事をほんとに有難いと思い願いとして信心を進めて行きたいと思いますですね。
どうぞ。